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◎ Leicaの歴史
○ Leicaの特徴
・性能的にはライカより優れているのもが多いが、ライカには魔力がある。
・1925年に発売されてから、超高級品としてのポジションを確保している。
・他の有名カメラより高く売れる、超過収益力がある。
・ライカを使うと魔力が乗り移って良い写真がとれる。
○ オスカー・バルナック
いくつかの修行を終えて、1902年に、「イエナ」の「カール・ツァイス」の機械工になります。ちなみにカール・ツァイスの従業員は1902年時点で1288名いたそうです。その中で「オスカー・バルナック」は「パスモス事業部」にいたそうです。
パルモス事業部
パルモスというカメラを作っていた事業部。カール・ツァイスでは1846年の創業以来、社内でカメラを作っていたのはたったの2回だけで、その2回も短い期間でした。(1回目:1902年〜1909年、2回目:1946年〜1948年)1回目が、オスカー・バルナックが来た時で、2回目が「イエナ・コンタックス」を作っていた時期です。パスモスというカメラを作っていた経緯は、カール・ツァイスの性能の良いレンズの性能の良さを実証して、ブランドの価値を高めるには、もっと精度の高いボディが必要だと感じていたからです。
○ ドレスデンでの合併
ツァイスは、価格競争を繰り広げ体力を削りあっていた、カメラ工場を「メンゲル」という男を動かし統合させた。これがICA(international camera AG)となりパルモス事業部も統合されました。つまりツァイスにパスモス事業部がなくなったのです。
○ ライツ社
1910年頃、2ヶ月だけICAに出向して、ICAのメンゲル社長に「オスカーバルナックが試作していた小型カメラを見せて売り込んでいる」。つまりこの時点で、ライカの母型は出来上がっていたのです。ちなみにメンゲル社長はカメラ作りのプロでしたが、この提案を拒否しました。その後1911年に「ツァイスの先輩メシャウ」に連れられ「ライツ社」に入社します。色々ありライカの原型ができたのは、1913年と言われています。
○ 新レンズエルマー
新しいカメラには、新しいカメラが必要だと感じ、マクス・ベレーク博士に頼んで「50mmF3.5」のレンズを設計してもらった。このレンズは「エルマクス」から「エルマー」となった。エルマクスとは、エルンスト・ライツと博士のMAXをとったもので、エルマーはお手本にしたTessarに敬意を表して変えたのです。
○ LEICAの発売
1924年に、ライカの量産が決まります。ドイツ産業が大不況に陥る中でリストラを避けるために、ライツ2世の決断で決められたのです。しかし実際は、リストラ回避のためだけではない事が、ライツ2世が実際に使ってライカの凄さを知っていて1914年の時点で特許を出していることから、わかります。
完成したライカは1925年のライプツィヒの春の見本市に展示されてすごい評判になりました。そもそもライプツィヒのメッセに展示できただけで、ライツ社が企業として一流であり展示商品がしっかりしたものであることの証拠なのです。
1924年の発売当初は「ライツ・バルナック・カメラ」1925年は「Leca」、「ライカ」と名前が変化していった。そして高額なライカは売れに売れ、破格の大成功を納め、1928年には黒字を計上したのです。
ライプツィヒ・メッセ
非常に権威のあるもので、世界で一番古い見本市です。1190年にスタートしています。
このメッセは神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン一世が勅許で庇護したので、当時の世界中で最高の権威がありました。
○ ライカの訴求点
映画用フィルムを使うのでフィルム代が安いこと。一度フィルムを詰めたら36カット撮るまで詰め替えが不要ということ。
○ ライカの飛躍
ライカが高級カメラとして、ちゃんとした性能になったのは、1932年に出たII型からです。このカメラには連動距離計がついていて、これは大変な技術革新でした。また、その連動距離計をカメラの中に収納した事がとても凄いのです。距離計を収納してもカメラのサイズが変わらなかったのです。また、ライカは連動距離計をつけて、マットクローム仕上げにした事で、誰にもでもわかる「機会美」をカメラに持ち込んだのです。しかも、どのカメラよりも圧倒的に魅力的なのです。
ライカのポリシー7条
- ライカは大きくなってはいけない。
- シルエットの美しさに影響してはいけない。
- カメラと距離計を別々に買う場合より高くなってはいけない。
- 既存のライカレンズ35mmから135mmのどれでも連動しなくてはならない。
- 直ぐに操作できなくてはならない。
- 作動原理は特許が取れなくてはならない。
- 連動機構は永遠に精度が変わらず、ガタや摩耗があってはならない。
- 従来型のライカを改造して、取り付けられるものでなくてはならない。
○ ライカの美の秘密
クロームライカを見てみると、軍幹部が四角い感じなのですが、「なんだか柔らかい」のです。デティールをみるといたるところに曲線が使われているのです。バルナックはもともと風景画志望で美について、鋭い完成とセンスを持っていたのです。ライツ社は、ツァイス社と考え方が違いほとんどの工程が手作りで全固体に通し番号をつけていて一生物の宝物扱いでした。一方ツァイス社の方はカメラはただの大量生産の工業製品でコンタックスでさえ、ハイエンドのカメラっていうだけなのです。
ライカII型のクローム仕上げは、宝飾品並みの鑑賞対象になった時にファッションアイテムにもなりました。ライカを持つ事が、オシャレのトレンドなのです。エルメスはそれに目をつけ、エルメス資本がライカを傘下に入れました。また、非常に大きな出来事として2011年に「Colbert」メンバーにノミネートされたのです。
Colbert(コミテ・コルベート)
1954年に創設された団体で、ジャン・ジャック・ゲラン(香水のゲランの代表)が発起人です。パリの贅沢品ブランド75社の連合体で、EUの他の国のブランドでもこれというものは会員にいれる。
フランスの会員は、エルメス、バカラ、カルティエ、シャネル、ヴァン・クレーフ・エ・タルペル、ルイヴィトン・・・どれも贅沢品の名店ばかりです。
ちなみにフランス以外のブランドで、加盟を許されているのは6社だけで、その一つがライカなのです。
○ ブランドとしてのライカ
贅沢品は、性能で競い合っていないのです。むしろ高級品より性能が劣っているものなんていくらでもあります。それでも、値段は贅沢品の方が圧倒的に高いのです。つまり超過収益力があるのです。
この値段は、ブランドの信用もあるが、排除価格というものがあります。その辺のつまらない奴に買われて、持たれるとブランドの値打ちが下がるから、篦棒に高い値段をつけるのです。
機械もので、このようなポリシーで売っているのは、時計や車があります。でもカメラでは他にないのです。
○ M型とバルナック型(クロームライカ)
M型はバルナック型に比べ、デザインが悪く、非常に大きい、レンズに比べてボディが大きすぎるのでマヌケな感じが抜けないのです。そもそもこの着眼点がM型にはフリで、M型とバルナック型では、そもそものコンセプトが違うのです。
M型のコンセプト
ファインダーがバルナック型よりよくて、よく写るカメラ。優れた光学機械。
M型が発売されていた時代は、優美なものではなく、ごついものが良いとされていた時代でした。
バルナック型のコンセプト
小型で大型に負けないくらいよく写るカメラ。エレガントなルックス。
○ 製造工程の変更
1940年にでたIIIcで製造工程が、板金加工から、成形加工に変わりました。つまり鋳造です。鋳造には金型がいるためコストがかなり高いのですが、それまでに35万台を売っているので、先々は大丈夫だと考え金型鋳造に踏み切ったのです。この切り替えでボディが数ミリ大きくなりましたが、バルナックは亡くなっていたため口を出す人はいませんでした。
この製造工程の変更で大きく変わったのが、それまでは四つのグループでできていたのが、二つのグループでよくなったのです。これでマウントを外側につける時に出ていた小さい誤差を修正する作業がいらなくなったのです。そして物凄く精密になったのです。
○ 新しいライカの発展
1950年に出た、IIIfは、バルナック型の完成系と言ってたいい出来栄えでした。この時点で、ライカは現代カメラとしての機能を全て揃えたと言って良い程でした。
そして、IIIfの後に、M3が出てきました。M3の研究は1930年代から始まっていました。これはコンタックスをはじめとするカメラに負けないためです。
M3は光学機械としては優秀な出来上がりで、距離計一体ファインダーの縮小倍率は0.91倍でした。距離一体ファインダーはコンテッくが先にやっていましたが、0.7倍の縮小倍率が、掛かっていたのです。つまりM3はファインダーカメラの短所を根本的に改善したのです。
ちなみにM3のMは「Messsuchercamera」の略です。その意味は、「計測」「ファインダー」「カメラ」です。「Messsucher」とは、ツァイス・イコンがコンタックスII型の広告で初めて使った言葉で、ファインダーと距離計が一体になったものを示します。
このM3は、ハイエンド・アマチュアにすごくウケました。これはライツ社の戦略通りなのです。
また、ライカは様々な用途向けにカメラをマイナーチェンジさせていて、全てを語るのはとても大変なのです。小回りがきく企業でもあるので、顧客の要望を多く取り入れていました。
1971年にでたM5は初めてのTTL測光モデルでしたが、かなり不格好で評判は悪いのです。M型の悪いところだけを拡張したみたいなカメラになっていたそうです。でも、この世代の若者は受け入れました。この前の世代の若者は商品に、「美」や「洗練さ」を求めました。でもこの世代は「実用性」が大きく前に出ていたのです。
1969年には、フォトキナでミノルタの部長とライツ社の人間がコンタクトをしたのがきっかけで、ミノルタとの提携に発展します。これは大衆向けの安いモデルである、ライカCLを作ってもらうのが目的でした。
○ 日本の美意識
上流階級の「風俗」「習慣」「文化」が第二次世界大戦が終わり、ほとんど消滅しました。同時に「美」と「洗練」も消えたのです。
でも、日本人には身分意識がほとんどなく、美意識の洗練があるらしいです。これには、日本文化が関係していて、小さい頃から「お茶」や「生け花」「神社」と言った洗練されたものに取り囲まれて育っているから、なのです。
ライカは「性能がよくて、小さくくて、頑丈で、美しくて洗練されてる」ものなのです。性能がよくて、小さいカメラや頑丈なカメラはありますが、「美しくて洗練されているカメラ」は他にないのです。
○ ライツ社と大ツァイス連合
19世紀にカール・ツァイス連合財団をエルンスト・アッベ博士が創立した時は、「人類の進歩と調和」を求めていた。しかし、1905年にアッベ博士が亡くなってから、ツァイスは変わったのです。競合企業の解体や、優れた頭脳のみの組織を構成していた。しかしこれは学歴がないと出世できない組織になり、組織が硬直化してしまいます。才能があっても学歴のないものは、ツァイスから去っていくのです。
ライカの発明家の「オスカー・バルナック」もその一人なのです。
そして、大ツァイス連合は、全てを支配することへ突き進むのです。
しかし、ライツ社は、激動の20世紀ドイツ史のなかで、同業他社が次々と、ツァイスに呑み込まれていく中で、徹底して独立性を有し、絶対不可避のブランド力までも築き上げました。
では、なんで大ツァイス連合はライツ社を飲み込むことができなかったのでしょうか?
○ ライツ社と大ツァイス連合の脅威
技術的なスペックではライカを圧倒していたコンタックスでしたが、実際にはライカの方が市場競争で打ち勝っていました。ライカにはあって、コンタックスにはなかったモノがあったからです。
そのモノとは、「軽い操作感覚で軽く動作する」というモノでした。バルナックは、「小型で軽量で軽い使い勝手」が必要であることに気づいていたのです。そしてこのコンセプトを一貫していたのです。それは、四角四面、理詰めで作られたコンタックスには無いものでした。
大ツァイス連合の数多のエンジニアを集結して開発されたコンタックスをしても、学歴は無いが一人の天才的な機械工の直感と才能には勝てなかったのです。